History

  デルフト焼の歴史

17世紀の前半は、オランダとアメリカ、そして日本にとって歴史的に飛躍した時代でした。16世紀末、スペインからの独立がほぼ成立したオランダは、スパイスなどの香辛料を求めて極東を目指し出航しました。最初の航海は1595年で、大好評となった胡椒をオランダへ持ち帰り、1598年、今度は南米経由のルートで、再度極東へと向かいました。

この時の航海船団の中には、後の1600年4月19日に九州で難破した De Liefde号が含まれていました。この難破事故から日蘭関係が始まった事は歴史的に有名な話です。東京駅の八重洲という地名の語源の由来のヤン・ヨーステン (Jan Joosten) と「将軍」という小説の主人公となったウィル・アダムス (Will Adams) が、この船に乗っていました。また同時期あったオランダ交易史の有名な話としては、北アメリカ東部へ渡ったオランダ人が1626年にアメリカ先住民から 24ドル相当の品物でマンハッタン島を買い取って、そこを New Amsterdam(現在はNew York)と名付けたのです。

中国製の染付の磁器が最初にオランダに出回ったのは1602年でした。品質が高く、大変な人気を博しました。それまでは、イタリアの錫釉陶器のマヨルカ焼の影響を受けていたデルフト焼は、中国製品の品質に追いつく為に努力を重ね、産業として大きく成長しました。17世紀の終わりにはデルフト市内の焼物工房の数は33にまで増え、その一部は市内で製造が減ってしまったビール工場の建物を受け継いで工房としたものもありました。

18世紀の始めに頂点に達したデルフト焼は、ヨーロッパ中の人気を集め、焼成技術や絵付技能を持ったオランダの陶芸技術者達は有名なドイツのマイセン陶磁器の始まりにも大きく貢献したようです。デルフト焼の筆使いは、中国の磁器の絵付けを参考にし、相当高いレベルにまで発達しました。この頃 "Delftware" としての産業は、イギリスやアイルランドにまで発展していきました。

しかしその一方で、マイセン焼の発祥のきっかけとなった磁器の原料のカオリンがドイツ北部で発見され、本物の磁器が製造できるようになった為にデルフト焼は厳しい競争に巻き込まれることになりました。磁器生産はドイツの他にフランスやイギリスにも広がり、19世紀半ばには、デルフト市内の焼物工房のほとんどが姿を消してしまいました。

幸いにも、19世紀半ばにイギリスで始まった産業革命による大量生産は、手作りを基本とする焼物の世界を終わらせることはありませんでした。作り手の生命の吹き込まれていない焼物や、その他の工業芸術に対する反発が、奇しくも産業革命発祥の地イギリスで芽生え、「美術工芸運動」として始まり、1867年に行われたパリ万国博覧会に出品された日本製品のデザインからの影響も受け、手作りの美しさは甦ることとなったのです。(この運動の影響は日本における柳宗悦、浜田庄司や、バーナード・リーチらの「民芸運動」にも及びました。)

デルフトの焼物としての伝統に対する興味も復活し、その技法を活かしたモダンな作品も作られるようになりました。染め付けの模様だけではなく、多色のデ ザインも取り入れられ、オランダの美しい花畑や風車の風景などが写実に表現されるとともに、もっと抽象的で、モダンに表現されるものも世の中に出てきました。

デルフトブルーの長い歴史の中では、陶芸工房の数が累計百以上もありましたが、今日では、そのほんの一部しか残っていません。デルフト出身だった私の父が60年前からアメリカに輸入し、そして弊社が2011年から日本にも輸入し始めた誕生絵皿 (birth plates)と結婚絵皿 (wedding plates) などが、2014年の夏から、Sylvia Brands という、弊社が当初から取引をしていた業者のSchoonhoven Keramiek(創業1920年)で37年のキャリアを持っている方によって蘇ることになりました。彼女オリジナルの手描きの多色の誕生絵皿もご提供しています。

ご注文いただくデルフトブルーのバースデープレート、ウェディングプレートやアニバーサリプレートが今後とも皆様の人生の歴史を刻むコレクションの続きがその始まりになることを願っています。過去から現在までの多くのお客様に喜びや良縁をもたらすこととなれば幸いに思います。